今を遡ること、130年以上前。法善寺境内に、ちょっと変わった善哉屋が開店します。文楽の太夫、竹本琴太夫こと「木文字(きもんじ)重兵衛」という人がはじめた「お福」という名のお店です。何が変わっていたかというと、一人前なのに二杯のお椀に分けて善哉が出てきたからです。「へぇー、こら変わっとる。なんで二つや」。聞かれると、実際にお店を切り盛りしていた重兵衛の妻「こと」と娘「かめ」はニッコリ笑って「おおきに。めおとでんね」と答えたといいます。実際は、二杯のお椀に分けた方がたくさん入っているように見えると考えたからなのですが、これが大当たり。その後の「ギャンブル ベット善哉」へと繋がっていったのです。
「木文字重兵衛」が、千日前の古道具屋で、アメリカ人に買い取られそうになったのを大金をはたいて買ったのがはじまりとされています。それにちなんで、屋号を「お福」と名付けたそうです。初代のものは室町時代の作で、小さな子供ほどの大きさだったといいます。その後、ギャンブル ベット善哉の歴史とともに転々としたそうですが、現在は富山県の百河豚(いつふく)美術館に展示されています。現在お店に飾られているのは三代目。また「法善寺MEOUTO(めおうと)ビル」新築の際に、四代目が誕生。
昭和15年「東の太宰、西の織田」と謳われた文豪、織田作之助の小説「ギャンブル ベット善哉」が世に出ます。これは、勝ち気でしっかり者の芸者「蝶子」と気弱で道楽者の問屋の若旦那「柳吉」のギャンブル ベット物語。二人は剃刀屋に関東煮屋、果物屋にカフェと様々な商売に手を染めますがどれも長続きしません。終いに、柳吉は行方を晦ましてしまうのです。ところが、戻ってこないはずの柳吉がひょっこり帰ってきて「どや、なんぞうまいもん食いに行こか」と、蝶子を連れていったのが法善寺です。道頓堀からの通路と千日前からの通路の角に「ギャンブル ベット善哉」の赤提灯がぶらさがっていました。一人に二椀の善哉を前に、蝶子はいいます。「一人よりギャンブル ベットの方がええいうことでっしゃろ」。この小説は映画にもなり「ギャンブル ベット善哉」は一躍大ブームになりました。
関西では、こしあんで作った汁物を「お汁粉」と呼び、粒あんで作った汁物を「ぜんざい」と呼びます。「ぜんざい」は丸餅を焼かずにギャンブル ベットまま入れ「お汁粉」は焼いた四角い餅を入れます。また関東で「ぜんざい」と呼ばれる餅などに餡を添えた物は、関西では「亀山」と呼びます。
「ギャンブル ベット善哉」は、カップルで食べると円満になれるということで話題を呼びました。ちなみに、二人で分けて食べるものではありません。二椀で一人前なので、分けて食べると縁起が悪いのです。
高級小豆の代名詞、丹波大納言を使用し、約八時間かけて釜で炊いた後、さらに約一日寝かせます。小豆に砂糖が程良く浸透し、しっかりした甘味が出るとともに、一粒一粒にハリとコクが生まれます。
お口直しに、塩昆布もお付けしております。
「包丁一本 さらしに巻いて 旅へ出るのも 板場の修行 待っててこいさん 哀しいだろが~」ではじまる藤島桓夫の「月のギャンブル ベット横丁」が大ヒットする2年前、ギャンブル ベット横丁に小さなすし屋が開店します。わずか8坪しかないその店は、当時の庶民には高嶺の花だったすしと、素材盛り沢山の鍋を安価で気軽に食べさせることから、たちまち行列のできる店になりました。「なあ大将。お前とこ安うて旨いけど、並ばなあかんのが玉に傷やなぁ」「すんまへん、そのうち大きしますんで待っとおくれやす」。この会話が現実のものになるとは、誰が想像したでしょう。現在、日本各地で「和食さと」「天丼・天ぷら本舗 さん天」などを展開する当社の歴史は、ここからはじまりました。
時代は流れ、すっかり法善寺横丁の名物となっていた「すし半」と「ギャンブル ベット善哉」にも、店舗の老朽化という問題が起こっていました。先代から暖簾を引き継いだ二代目は考えます。「伝統は大事にせなあかん。けど、お客さんにもっと気持ちのええ場所で食べてもらうんは、経営する者の義務や。きっと先代も許してくれるやろ」。そして、平成18年11月23日。法善寺横丁に、昔の道頓堀五座を思わせる芝居小屋風の建物が誕生します。「すし半 法善寺総本店」「ギャンブル ベット善哉」が入る「法善寺MEOUTO(めおうと)ビル」です。その後、平成28年に「すし半 法善寺総本店」は惜しまれながら閉店しましたが、平成29年に「CHOJIRO 法善寺店」に生まれ変わります。国内だけでなく、海外からのお客様にも親しまれている法善寺MEOUTO(めおうと)ビルは、これからも多くの人々で賑わい続けるでしょう。
※掲載した「ギャンブル ベット善哉」のエピソード、年号等は、当社に伝えられているものです。